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2019年度総会&リ・ユニオン開催報告

同窓会事務局
報告
2019年08月07日
*2019年6月1日(土)同窓会総会&リ・ユニオンが開催され、同窓生の阿部友昭氏によるご講演『未来への遺言 忘災 東日本大震災 3.11を忘れずに、後世に伝えたい』をいただいたので講演内容全文について掲載させていただいております。

2019 総会&リ・ユニオンが荊冠堂チャペルにて行われました。

総会の中で優秀な成果をあげた学生団体への成果表彰が行われました。
学園各設置校より推薦を受け高等学校軽音楽部と大学女子バレーボール部、大学弓道部、大学陸上競技部駅伝チームの4団体に報奨金と表彰状が渡されました。

大学弓道部主将の蛭間敬人さんより、成果表彰の感想文をいただきましたので掲載いたします。

 


こんにちは。弓道部主将の蛭間敬人です。この度はこのような式を開いて頂き、また表彰して頂き光栄に思います。私としては表彰内容の全日本大会での準優勝はとてもうれしかったのですがまさか大学側から表彰して頂けるとは思ってもいませんでした。
リ・ユニオンという同窓会があるのは当日初めて知りその中での表彰はとても緊張しました。ほかの部活もすごい戦績を出していて、また大学生だけの表彰だけでなく高校生も表彰されていて驚きとともにすごいなとも思いました。
全日本大会準優勝は個人戦ではなく団体戦のため私個人の力ではなく選手8名の力で成し遂げられたものだと思っています。そのため表彰式には選手全員で出席したかったな、と思いました。
全日本大会以外にも大会があり昨年度は個人戦ではありますが入賞した学生も多々います。
「弓道」というほかの部活に比べてマイナーな部活なため、どのような競技なのか知らない方も大勢いると思います。そのためどのような競技なのか知ってほしいです。弓道は老若男女関係なくできる武道なので一度体験して頂けると楽しさがわかると思います。
正直表彰されたことはとてもうれしかったので今年度も昨年度以上の戦績で表彰されるよう部員一同団結して頑張っていきたいと思います。

蛭間敬人




また、桜寮の舎監をされるとともに、桜美林中学校・高等学校教諭、日本基督教団桜美林教会牧師として勤務され、昨年退任されるまでの40年以上に渡って同窓会の幹事として活動いただき、『同窓会だより』の発行に関しては原稿の執筆から編集作業まで他大なるご尽力をいただいて現在も引き続き原稿執筆にご協力いただいております、小林茂先生には永年功労賞として記念品と表彰状が授与されました。

これからも皆さまのご活躍をお祈り申し上げます。

総会のあとは、横山正子先生の指揮、桜美林大学クワイヤーによる奉唱と阿部友昭氏による講演会『未来への遺言』という題名で講演をいただだきました。
阿部友昭氏は、中学校教諭として勤務され、様々な中学校校長を勤務された後、2011.03.11の東日本大津波に被災され家屋を全壊流失されましたが、現在は3.11を忘れずに後世に伝えるために東日本大震災の語り部として全国を講演されています。

以下、阿部友昭氏の講演内容全文を掲載させていただきます。

2019年6月1日 阿部友昭氏 講演会


皆さんこんにちは。私は先ほどご紹介ありました1975年桜美林の中文科を卒業しました阿部友昭と申します。どうかよろしくお願いいたします。

私の「未来への遺言」という題ですけれども、実は八年前の東日本大震災の時の体験の一部を伝えようとしての皆さんへのお話でございます。

当時私は中学校の校長をしておりましたので、その時の中学生の様子と、それから避難所の運営をしておりましたので、その状況をお話したいと思います。

先ほどクワイアの皆さんにメサイアを歌っていただきましたが、
東日本大震災では、二万人弱の方が亡くなられており、今も二千五百名の方が行方
不明です。
八年たった今でも、つい4月にですね、あるお母さんの遺品が見つかった。そしてDNA鑑定の結果、本人の物だということがわかりました。そんなニュースもありました。

そこで初めに、私がお話をする前に、皆さんにお願いがあります。亡くなられた方々
にご冥福を祈り、黙とうを短い時間ですがお願いしたいと思います。
よろしくお願いします。黙とう。
お直り下さい。ありがとうございました。

私は、今スライドのほうにありますけれども、出身が宮城県の北東部の沿岸に位置します現在南三陸町と呼ばれるところです。私の生まれは志津川地区というところの本当に海から100mもしないところに家(自宅)がありました。

1960年のチリ地震の津波の時、私は小学校二年生でしたが、その時にも、津波にあって、高台に避難しました。近所の方が亡くなり、家が半壊状態で、津波の恐ろしさをまざまざと感じました。
その時のことを教員になって、生徒たちにこのことは伝えなきゃなと思いまして、
毎年5月24日この日はチリ地震の津波が来た日ですが、この日には「地震がなくても、何か異常な引き潮があったら高台に逃げるんだ、何も持たずに逃げるんだ、体一つで逃げるんだ」というようなことを生徒や地域の方々に話してきました。

今日はそのまさか来るとは思わなかった、本当に想定外というか、30年後には来るだろうと言われていました大津波、東日本大震災、本当に来てしまいました。
最近は南海トラフとかいろいろな地震があるということで伺っていますが、講演時間があまりありませんので、簡単に私が経験した、体験したことをお話しして
これからを生きる人々に伝えていければなと思っています。
11:10~
(スライドを指さしながら)これがちょうど南三陸町の志津川湾、浸水した地域、赤で囲んだところが津波が来たところです。黄色で囲んだところが集落があったところです。地図の下の方は南なんですが、下の方の一番山までいったところが、だいたい海から6キロ位いったところ、北の方は4キロ先まで津波が行きました。
高さ的には南の方の沿岸では一番高いところで32メートルの津波が来ています。
11:55~
次お願いします
私が当時いたのは、ちょうどこの歌津地区と言うところですが、生まれたのは、この志津川地区というところです。
これ(写真を指さし)は8年前の当日3月11日の歌津中学校の、私が校長をしておりました学校の校庭に逃げた生徒たちです。
12;35~
実は私は校長をしておきながら、当日、地震の少し前には学校にいませんでした。
実は明日3月12日が卒業式。それから前任の戸倉中学校も明日卒業式、前任校に行って「明日は来れないけれども、卒業おめでとう。」とお話に行きました。ちょうど地図の南側の沿岸の中学校です。
13:10~
そこに行って車で歌津中学校に帰る途中、午後2時46分あのすごい地震がありました。
私は運転中、体を動かしてこんな状態ですね。もう車の運転ができない位の状態でした。
13:30~
私はとっさに「これは絶対津波が来る」と。目の前の川を見たら、川の水がどんどんどんどんどんどん海の方に引いていっています。

これは絶対津波が来ると思いました。大地震がおさまったので再度運転、
たまたま自分の自宅のところを通りましたので、当時90歳に近い父と母がまだ存命
でしたので、その二人を乗せて、本当はすぐに近くの高台に逃げれば一番良いのです
が、校長の役目から学校に戻らなくちゃいけないという気持ちで、歌津中学校までの
約10㎞の国道を運転しました。
14:15~
その間に入り江を、二か所通らなければならない。
その二か所を通った時、ちょうど海の水がずーっと引いていくのが見えました。
「あっ、こりゃ絶対来るな。」とわかりました、ちょうど歌津中学校の校庭の駐車場に着いた。その時には、まだ小学生は中学校校庭に避難していませんでした。中学校の校庭の写真を指し今丸で囲んだところが小学生です。けれども私が到着した時には、右側の中学生だけが避難していました。中学校の校庭は海抜約25mの高さのところに中学校があります。その下に海抜15メートルのところに伊里前小学校という小学校があります。その小学校が本当は地域の指定避難場所になっていました。下の伊里前小学校を見ると、小学生が校庭に並んでいました。そして地域の方々も伊里前小学校の校庭にいっぱい避難していました。
15:28~
私はとっさに校門の方まで走っていって、そして「上がれ!」と大きな声を出しました。
その声を聞いた小学校の校長先生が、中学校の校長がなんか「上がれ」と言っている。「よし、小学生、地域の皆さん。上がりましょう。」と中学校まで上がってきました。
15:58~
その上がってきてわずか5、6分後、3時26分、ちょうど地震があってから40分後です。大津波が来ました。一波だけではありません、それから夜中までに津波は何波も何波も続きました。その時私はもっと大きな津波が来るんじゃないかと思いまして、小中学生にもっと上の畑まで逃げるように指示しました。そして畑まで逃げた時に、天候が急変、なんとものすごい風と雪、吹雪、寒さでした。
(スライドを指しながら)
当時はこの恰好ですから、ものすごく寒くて寒くて、子供たちは凍えそうでした。
16:44~
それでもあの小学校の校庭で渦巻いている津波の様子を見て、「あー、中学校まで来なければ良いなと祈っていました。夕方、日没とともに暗くなる中、寒さが一層厳しくなりました。若い先生に中学校までちょっと下りて状況を見てくれと頼みました。
先生から「中学校までは津波は来ていなかった」という報告を受けて、畑から小・中学生を中学校の体育館まで移動避難させました。

だいたい地域の方々も入れて、中学校の校庭、体育館には800人の方がそこに避難していました。一番困ったのは寒さです。もう雪の中、寒くてしょうがありません。
17:45~
どこかのおじいさんが「校長、校庭でたき火を焚いて良いか」と言ったので
「はー、どうぞ、どうぞ」 普通は校庭でたき火をたいちゃダメなんですが、もう暖を取るためにはたき火しかありません。その暖をとったたき火でお湯を沸かし、そして人々を暖めて、何とか一夜を過ごすことが出来るようになりました。

同じように小学生、中学生は体育館に入ったことは入ったのですが、ガラスが割れてい
て、それから(次お願いします)はい、これは先ほどお話しした時計が止まっている(伊里前小学校の写真を指さし)地震発生時間です。これは津波が来た伊里前小学校の校庭の写真です。

ちょうどこのくらいまで津波が来ました。校庭が海抜15mですから、海抜18mくらいまで来ました。
(次お願いします。)
これは歌津の駅です。JR気仙沼線は今は動いておりません。今はBRTバスで代行していますが、津波の到達高さがわかります。人の高さがこの位ですので、海抜15mのこの駅のこのくらいまで津波がきました。だいたい15mから20mです。
19:30~
(次お願いします)
これが3月11日の体育館の避難所の様子です。
ちょうど紅白の幕で、明日が卒業式という日でした。土足でみんなが何とか無事避難することが出来ました。
19:53~
寒さ、そして避難したことは良いんですが、食べるものがありませんでした。
夜になってやっと山手の人たちがおにぎりを作って来てくれました。
「校長先生、避難した人達におにぎり作ってきた」

「何個作ってきましたか?」そしたら200個あるんですね。
でも避難している人達は800人位です。「さあ、200個のおにぎりを、たった200個で800人分にやることできないな。」とちょっと考えました。
20:35~
そこで「3年生の女子中学生、ちょっと来て」と女子生徒を呼びまして、「このおにぎり、いくらでも良いから、小さくても良いから数を増やして」と言いました。
そしてそのおにぎりを、約400~500個くらいにしてもらいました、倍くらいに。

で、「まずは、小さい子、お年寄り、そして体の不自由な人なんかに分け与えて、もし余ったらみんなも食って良いよ」ということを話しました。で、後から聞いた話ですが、その女子中学生は「校長先生、私はおにぎりは食べなくてもお腹がいっぱいになった。」「どうして?」と言ったら、「小さい子供から、お年寄りのおじいちゃんおばあちゃんから『お姉ちゃん、ありがとう。あのおにぎりうまかった。』その『うまかった』という感謝の言葉を聞いたときに、自分はお腹よりも心がいっぱいになった」と言うようなことを後で話してくれました。
21:45~
その後、その晩はそんな感じで、新聞紙や学校のカーテンにくるまって寝ました。子供たちは車座になって寝ました。
21:57~
三日間、この歌津地区は、他の地区ともどことも連絡を取れずにいました。
二日目になってやっと、水はなんとかあったんですけれども、トイレも水が詰まり、そして流すものが何も無くなった、困っている所に、
3年の明日卒業という、三年生の男子が「先生、俺、水の出る所を知っているから、水汲みに行って良いか」と言う。いつもは元気のいいやんちゃ坊主です。

最初に担任の先生に水汲みに行くと言ったら「お前はだめだ」と言われ、それで直接校長のところに来たんだそうです。「担任からはだめだと言われたが、俺行っても良いか?」と。私は即座に「うん、行って来い。そのかわり、一人で行ってはダメだ。いつもの悪悪とは言いませんけれど3人組で行けよ。」
といったら「わかった」そして「水を汲んで来たら、まずは俺に飲ませろ。」と言うことを申しました。
23:13~
さあ、沢べりの水の湧いているところまで、三人でペットボトルとかいろんな入れ物を
持っていきました。一時間くらいしましたかね、帰ってきました。

「校長先生、水汲んできたよ。」「エライな。どれ、校長先生に飲ませろ。」
ということで、私はペットボトルの水を半分、もっともっと3分の2位、もう一本全部飲もうかというところまで飲みました。

すると生徒の一人は「校長独り占めするんじゃないかな」と言うような顔をしていました。私はそれだけ飲んでから「よし、大丈夫だ。これでみんなに汲んできていいぞ。」と話しました。するとその男子生徒「あ、校長、毒見したんだ。」とわかった様子でした。

「さあ、これから男子生徒みんなで明日から水汲みに行くんだぞ。
女子生徒は食料部隊、男子生徒は水汲み部隊だ。」トイレがない時は校庭にトイレを掘って、そしてブルーシートをかけて、女子用に特設トイレをということもしました。

そんな避難生活をしている中で、四日目にやっとヘリコプターがものすごい爆音とともに校庭に着陸しました。みんな消防団の人とか地域の大人の方々は「あー、自衛隊が支援物資をもってやってくる。」ということで喜んで、ヘリコプターの周りを取り囲みむように並びました。

25:07~
ヘリコプターから降りてきたパイロットがヘルメットを取るとなんとアメリカ兵隊です。
消防団の団長さんが「ああ、校長、校長。アメちゃんだ。英語を話すから早く来い。」 私も中文科ですから英語がだめなんですが、なんとか聞くことはできました。
それは「レスキューに来た。それで救急を要する人がいたら、このヘリコプターで他のところまで乗せていく」ということでした。あとでわかったのですが、それが「友達作戦」。湾の外、海のところに空母がちゃんと来ていました。私はあとでわかりました。

そして「今救助する人いますか?」と聞いたので「今はいない。その代りに妊婦さんが
一人。この人運んでもらえるかな」と言うことを話しました。しかし、妊婦さん自身が「アメリカの空母に乗るの?いやだ」といい出しヘリコプターには乗りませんでした。その後、三日くらいしてから別の病院に行ったそうです。
26:20~
「それじゃ、何か必要なものはないか」と聞かれて、まずは水、食料、毛布そして四つ目にガソリンを頼んだ。当時はガソリンがありませんでした。
早速、その日の夕方に水と食料と毛布を届けてくれました。もう800人に十分なくらい届きました。
26:51~
そして、四日目を過ごしました。
やっと、四日目の夜中、今度は私が校長室で仕事をしていますと、ものすごいバイクの爆音が響きました。バンバンババン。

ああ、震災なのに暴走族が来たかと思ったんですが、暴走族ではなくて、私の校長室の前にこのバイクがパッと止まったんです。そして「トントン」「ここにどなたかいますか?」窓を開け、「私が校長の阿部です。」と応えると、
27:28~
降りてきた人が言うには、「私たちは自衛隊の先遣隊です。」「道路がもう寸断されて通れないので、山を越えて、やっとここまで来ました。明日からは山を越えられるところがわかったので、道路を拡張して、いろいろトラックなどが来ますから、安心してください。」それから後は食料とか衣類、生活用品の支援物資が
本当に多くの方々からたくさん届きました。
28:00~
「もう講演予定時間の12時半なので、ここでやめなくちゃいけないのですが、もう少しよろしいでしょうか?」(拍手)
確か、先ほどメサイアの歌を歌ってくれた皆さんが当時多分小学校5,6年だったと思います。
28:29~
その時に、やはり小学校6年生の女の子がいました。その女の子はおばあさん、お母さんとある避難所で暮らしていました。

そのおばあさんが「校長先生。中学校の校長先生だけれども、話を聞いてもらっていいか?。」と「何ですか?」
「うちの孫娘はこのごろなかなかしゃべれないんだ。なんかうんともすんとも全然覇気が無いんだ。」
それで「どうして」と聞くと、実はこういうことがあった。その女の子は今までは避難所でいっぱい小さい子のめんどうとかご飯の準備とかいっぱいみんなの手伝いをしていた、ところがある日行方不明だったお父さんの上着が泥だらけになって見つかった。
お母さんは「ああ、この泥だらけの背広は捨てるよ」と女の子に話したそうです、その女の子は「いや、泥だらけのお父さんの背広、もしお父さんが見つかったら着るものが無くて困るから、私がこの背広を洗うよ」と言って一生懸命洗った。
そしてその背広がきれいに干しあがった日に、お父さんの遺体が見つかった。それからその女の子は何もしゃべれなくなり、食べれなくなり、そして一人ふさぎ込んでしまった。
30:14~
おばあさんはどうしたら良いかということで聞きに来た。
私はおばあさんに「少しそっとしてやっておいてください。私もまたそのうち行きますから。ご飯とかの食べ物は、食べなくても良いから準備だけはしてやってください。」
ということで、1週間後に行きました。
そしたらなんとか食べれるようになった、まだ笑顔はないけれどもというようなお話しでした。
私は女の子に直接「じゃあ四月になったら中学校に入るんだから、中学校を見に来るか?」というと、女の子はうなづきましたので、中学校へ連れて行きました。
その頃は避難所である中学校には大学生のお兄さんお姉さんがおおぜい全国からボランティアに来ていましたので、そのお兄さんお姉さんに女の子を合わせて、いろんな作業を一緒にさせました。
すると私たち先生や親兄弟にはしゃべれないことを、その大学生のお兄ちゃんお姉ちゃんにはいろんなことをしゃべっていました。その後いくらか明るくなりました。
31:30~
また、入学式の言葉の中で中学一年の女子は「私はあの小学校の花壇に咲いたチューリップのようになりたい。それはあの津波に埋もれてもきれいなきれいなチューリップの花を咲かせていた。あのチューリップのように私は元気に中学校生活をこれから送りたい」と言うことを話していました。
32:00~
そんな入学式がなんと5月11日に多目的室で行われたんです。普通だと体育館で四月です。しかし、この学校の体育館は避難所として地域の方々が力を合わせて避難生活をする状態でした。
そんな避難所生活が約5か月、8月まで続きました。そして3月12日に予定されていた卒業式はなんと5か月遅れの8月13日にやっとすることができました。
32:40~
それも、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんからは「なんでお盆の入り日に卒業式をやるんだ」言われました。
私は逆にいろんな方への心の支えになるのかなと思って選択しました。
本当は五月の連休を狙ったんですが、卒業生はみんな高校に進学して卒業生が集まることが困難でした。

で、8月13日。なんと気温30度。猛暑の体育館で、しかも一円玉くらいの大きなハエがぶんぶん飛んでいる、そういう中で卒業式をしました。
ところで、たぶん、年配の方々はハエトリリボンを知っていると思いますが、そんなハエトリリボンに、大きなハエがいっぱいついていました。

34:00~
そんな中で、やっと、卒業式が終り、震災後、初めて、私はひげをそりました。
卒業生との約束、「おまえらの卒業式をやるまでは、髭も髪も刈んないぞ。」
8月13日床屋のお母さんからひげをそられ、パーマ屋のお母さんから髪を切
られ、きれいに卒業式が終わった壇の上で、断髪式をやりました。それ以来、またひげを伸ばして(います。

今日皆さんにお渡しした私の色紙は、ご支援をいただいた全国の皆さん、そして世界の皆さんへのお礼の意味で持ってきました。『一に命、二に心、三に夢』は未来ある
若い人に「命が一番大切なんだよ」と言うことを話しました。それは卒業式の式辞でお話しした私の言葉です。

そして「友あり、道あり、明日あり」これは、私が勤めていた歌津中学校の校歌の一部分です。
35:20~
それから、その裏側の方に「海のように………」という詩がありますけれども、それは南三陸町の町民憲章です。実は震災が来る5か月前の2010年11月1日に南三陸町が合併誕生して五年目。津波で亡くなられた、田生教育長が委員長で、私が副委員長で町民憲章を検討し作成しました。それが今南三陸町の町民憲章になっています。
やはり自然の偉大さ、自然の美しさ、そして自然の恐ろしさ、このことが私たちの心に焼き付いています。「天災は忘れた頃にやって来る。人災は人の心がけと行動しだい。」
36:23~
最後になりました、7分位オーバーしてしまいましたが、まだまだいっぱいいっぱいお話ししたいことがあるのですけれども、この南三陸町の町民憲章を私なりに歌にしましたので、どうか聞いてください。

  海のように広い心で
  魚のように生き生き泳ごう

  山のように豊かな愛で
  繭のようにみんなを包もう

  空のように澄んだ瞳で
  川のように命をつなごう

  大きな自然の手のひらに
抱かれている町南三陸

ありがとうございました。


   



場所を桜カフェに移しての懇親会では、恩師を囲んで懐かしい学生時代の思い出に話が盛り上がっていました。
またの再会を約束し合う姿があちらこちらで見られました。

リ・ユニオン当日、お集まりいただきました皆さまには心より感謝いたします。
来年のリ・ユニオンには、更に多くの卒業生の皆さまにお越しいただきますようお待ち申し上げております。

当日、ご出席された方々からご感想を頂戴しましたので、掲載いたします。

桜美林学園同窓会




『 与えられたもの』

二宮 泰助 (52短英卒)
今回は、私にとり6年ぶりのリ・ユニオン参加でした。
前日には今春オープンした新宿キャンパスを見学することも出来ました。町田キャンパスに着くと、心の故郷に帰ったような気がします。訪れるたびに学園の変貌に驚かされます。当日は、有意義な阿部友昭氏の講演のあと、懇親会では旧知の方々ともお会いし楽しい一時を過ごすことが出来ました。

私は、1950年桜美林短期大学英文科第一回生として入学しました。今年90歳になりました。敗戦後5年、まだ貧しく学園も粗削りでしたが、長い戦争から解放され、平和と自由をめざして歩み始めた時期で空気も明るく、安三先生はじめ個性ある先生方の講義も魅力的で楽しく新鮮でした。しかし、そんな中で私は大きな挫折を体験しました。肺結核で大手術を受けたのです。そのため1年遅れて辛うじて卒業しました。私の家族は戦後外地(韓国)からの引き揚げ者で父親もなかったので当時、福岡に住む母の下で失意の時を過ごしていました。そんな中にあって、私を大きく立ち上がらせたものは、安三先生から届いた「復活の丘」誌創刊号と終生の友となった数人の桜美林の親友達でした。

安三先生の高い理想(信仰)と現実生活への実践力に目覚めさせられ、在学中、私を家族にまで迎え入れてくれた友情の支えで私は立ち上る事が出来ました。
彼らは皆故人となりましたが、今思うと胸が熱くなります。





『30年ぶりの学園。感謝!』

中東 勇也(86大中卒)
この度初めてリユニオンに参加させていただきました。1986年度中文科卒ということですので、約30年ぶりの学園訪問となります。(卒業後1~2年は学祭に行ったかな?)
同窓会副会長の山本美浩さん、学園職員の和田満さんとは中文科の同期です。今回リユニオンのことも二人からの誘いで知りました。実は私ども数名の友人は、卒業後30年以上経った今でも年に数回は集まって飲み交わす仲なのです。連絡ありがとうございます。

さてリユニオン当日は所用があり、開会には間に合わず遅れての学園到着。にもかかわらず、到着した時には懐かしさのあまり学園内をひと周り散策していました。まず足を運んだのは欅の広場。学生時代友と語り合った想い出の場所。周りに新しい校舎が建ち、広場自体もキレイになっていたので、正直変わってしまったなという印象。一方チャペルから亦説館、其中館を眺めると、30年前となんら変わらない風景。中文科の盾看板でもあれば当時のままです。「梅雨入り宣言コンパ」など…暫し足を止めて感慨に浸るひとときでした。

我らが恩師石川忠久先生にもお会いすることができました。新元号令和決定の際には、その選定メンバーのお一人であったという報道。驚きと改めて尊敬の念を感じていたところです。お声の張りも当時のままでお元気そうでなによりでした。

リユニオンのラスト。世代を超えた卒業生達が共に手を取って一つの輪になり、桜美林学園の校歌を熱唱したのには感動しました。90才の大先輩から先日卒業されたばかりの若人まで一つになれたと思います。

最後になりましたが、同窓会実行委員の方々本当にありがとうございます。準備から当日の進行役、お世話に到るまで感謝しております。

卒業生の皆様、また来年のリユニオンでお会いしましょう。

朋友們、あのとき命あって良かったー!





『同窓会総会 リ・ユニオン感想』

佐藤 佑樹 (16LA卒)   
最初、同窓会総会 リ・ユニオンへの参加は気持ち半分でした。
一人で行く気にはなれなかったため、大学で同じゼミだった友達に行くか聞いてみたところ、「他の人にも行くか聞いてみるね」と連絡が来ました。その後、「他の人は行かないみたいだけど、私は一人でも行く」と連絡が来たため、自分から話を出しておいて、友達一人に行かせる気にはなれなかったため参加することにしました。

総会の感想は、参加して良かったのかという不安と緊張で内容がほとんど頭に入ってきませんでした。当日一緒に参加した友達に総会の感想を聞くと阿部友昭氏講演会が印象に残ったようで「震災の話しが聞けたのは貴重な経験だった。桜美林の大先輩に、津波の時、校長先生として生徒や地元の方々を助けたような凄い方がいらっしゃるとは思わなかった。」と言っていました。

リ・ユニオンの感想は知っている人はおらず、不安でしたが大先輩の方々がやさしく接してくださり話しやすかったです。また、知っている先生もいないと思っていたのですが、一度だけ講義を受けた先生がおり、5~6年ぶりに話しができたことにこの場に参加して良かったなと思いました。

最後に、今回参加してみて悪くないなと思いました。
良い経験のひとつになったかなと思います。


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