年間聖句

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。
憐れみに富み、情け深く、正しい光が。

(旧約聖書 詩編 112編4節)

人が虚無感やニヒルに陥る時とはいったいどんな時でしょうか。そのひとつは、どんなに正しいことや努力をしても報われない現実を体験的に味わう時です。いつもまっすぐな人が報われるとは限りません。むしろずる賢いもの、要領の良いものが利益を貪ることもあります。それは現在の政治の世界でも、またわたしたちの日常でもよく見る光景です。そうした現実がわたしたちを失望させ、諦めや冷笑、そしてニヒルへと導いていきます。そして気づけば希望もない闇の中にいるような感覚に陥ることもあります。
 
本学園の2023年の年間聖句は、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」と語りかけます。ここでの「まっすぐな人」は「正しい人」や「正直」というニュアンスもあります。しかしこの世界はそうした人々が報わることを簡単には許しません。そもそもこの聖句にはどんな想いが込められているのでしょうか。
 
「詩編」とは、新約聖書(ギリシア語聖書)で多く引用される旧約聖書(ヘブライ語聖書)内の書物です。想定される時代は箇所によって異なりますが、総じて、詩編は周辺強国から厳しい歩みを強いられた古代イスラエルの人々が、それでも神からの救い主に信頼を置き、その到来と働きを信じて歌った歌だと言えます。実は詩編を歌った人々の現実もわたしたちと同じなのです。詩編には、外国列強の支配に苦しむ中で、また神を信じても報われないような現実の中で、「神はどこにおられるのか」「なぜ、そしていつまで苦しむのか」と訴える言葉がたくさん登場します。闇の中にありながら、それでも「まっすぐな人にはどんなに暗い現実の中でも、神の光が昇る」と希望を歌ったのです。
 
この事実に目を向けながら社会を観察する時に、一つの真実に気付かされます。それは報われない社会を作り出し、それを容認しているのはわたしたちでもある、ということです。しかし詩編は「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」とただ神に期待するだけでなく、自分たちの社会ではこれが現実となるようにと人々に呼びかけているのです。
 
本学園は、すべての学友の努力が報われることを祈りますが、特に、心ある人が、正しさに努める人が、隣人愛や学而事人を体現しようとする人が報われること、神の光に照らされることを信じる学園でありたいと思います。そしてただ信じるだけでなく、この社会と学園内にそれが信じられるアトモスフィア(雰囲気)を、学園に連なる皆さんと一緒に創り出したいのです。
 
創立者のひとり、清水安三もまっすぐな人でした。人のために正しいと信じたら、まっすぐに行動を起こす人でした。そのまっすぐさのゆえに、清水は時に他人から誤解され、口撃を受けた人でもあります。しかし、実は清水もまた「まっすぐな人には闇の中にも光が」と信じた周囲の人々の理解、その理想を信じる人たちによって支えられてもいたのです。そこにはわたしたちが目指すアトモスフィアがあったのです。
 
この伝統を今この時代にも!