曽て私達は北京から、『支那の友』という小雑誌を発行して、月々崇貞の後援者に発送した事がある。『支那の友』には私共の支那論を載せたり、学園の報告を掲げたりした。今でも地方へ講演の旅を試みると、初号から終刊号まで保存している人々に出逢い、感激させられることが屡々である。
帰朝後『桜美林タイムス』を発刊したが、その名称が特定の団体の読者を相手にしているという理由で、第三郵便物の許可をえられなかったために、たった4号までしか続かなかった。私共は、日本全国に向かって、否な海外にまでも広く発送するので、許可せられぬと郵送料がかさむので困る。そこで、この度は『復活の丘』という新たなる名称を以て発刊する事にした。
『復活の丘』という名くらい、オビリンナーにとってなつかしき名称はなかろう。また、北京の東郊で一切を失って、精神的に死んじまった私達が、東京の西郊のこの丘のふもとで、再び芽を吹き出し文字通りに復活したのであるから謂わばこの丘の名そのものが、私達を象徴しているのである。
さればこそ、何という紙名にしようか。『復活の丘』と名づけたら、それがいい、衆議一決にして、この紙名を以て江湖大方に見えることとなった。どうかいく久しく御愛読を乞う。