「復活の丘」清水安三語録(第1号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第1号「発刊のことば」

1955年8月1日発行号に掲載

1955年当時の短大生

曽て私達は北京から、『支那の友』という小雑誌を発行して、月々崇貞の後援者に発送した事がある。『支那の友』には私共の支那論を載せたり、学園の報告を掲げたりした。今でも地方へ講演の旅を試みると、初号から終刊号まで保存している人々に出逢い、感激させられることが屡々である。

帰朝後『桜美林タイムス』を発刊したが、その名称が特定の団体の読者を相手にしているという理由で、第三郵便物の許可をえられなかったために、たった4号までしか続かなかった。私共は、日本全国に向かって、否な海外にまでも広く発送するので、許可せられぬと郵送料がかさむので困る。そこで、この度は『復活の丘』という新たなる名称を以て発刊する事にした。

『復活の丘』という名くらい、オビリンナーにとってなつかしき名称はなかろう。また、北京の東郊で一切を失って、精神的に死んじまった私達が、東京の西郊のこの丘のふもとで、再び芽を吹き出し文字通りに復活したのであるから謂わばこの丘の名そのものが、私達を象徴しているのである。

さればこそ、何という紙名にしようか。『復活の丘』と名づけたら、それがいい、衆議一決にして、この紙名を以て江湖大方に見えることとなった。どうかいく久しく御愛読を乞う。