「復活の丘」清水安三語録(第2号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第2号「造園」

1955年9月1日発行号に掲載

高校の授業風景、左端は清水安三

「立派な庭園が出来ましたね」と道で行き合った卒業生の父兄の一人が他ごとならず喜んで挨拶して下さった。

庭といっても唯十種類位の大小の庭樹が配置され、講堂の外側に一叢の木立を作っているに過ぎない。

植えられた木々は女真一、つつじ二、綿木一、唐しゅろ二、白蓮一、桧葉三、金松二、杉二、ドウダン二、黄楊二、白檀五、桧一、青柾木二、椿一、ウバメ樫一、青木二、ヒマラヤ杉二等々である。いずれも埼玉から搬入された。三年越しに積み立てられた卒業生の記念植樹である。玄関の左、講堂と、ハイウエイ(現在の町田街道)の間の空き地は、従来は乱雑な草叢のまま放置されていて、よく「耕地をああしておくのは勿体ない」と、村人の批評のささやきを耳にしたこともあった。それが創立十年目に、漸く道行く人々から庭園と見えるまでの形を備えたのである。ただこれだけの植樹ではあるが講堂の存在が、どれだけ奥床しくなったことか。講演を聞くにも、式典を挙げるにも、ぐっと落ち着いて整別された感を与える。

然しまだ講堂に隣る建物、高い煙突のある大きな大浴場前に続く空地と玄関前右側の空地は、なお雑草の茂るままに放置してある。造園計画の中に入ってはいるが、今年は実現されなかった。それが完成すれば学園の外観は、一層見違える様によくなるであろう。

どうせ来年、再来年造園するならば、運搬費の節約にもなるから今年、一ぺんにやってはどうかという説もあったけれども、卒業生も借入金を返済するために、記念献金するのでは、同じことであっても、霊感が湧かぬであろうから仮令、トラック代に損をしても、来年の卒業生は改めて、雑草を除いて植樹造園するがよいと言うことに決まった次第である。

造園が完成した暁には、ハイウエイの土堤を石垣にすればよかろう。大谷石を積み重ねたらどんなに立派であろう。木々の間に飛石を敷き、石燈籠を立て、心字の池を掘り花岡岩の井筒を据えたならば一かどの庭園ができ上るであろう。来年はこの空き地に植樹、再来年はあそこ、その次の年は石燈籠という風に少しづつ計画を進めるならば、何時かは稀に見る庭園が出来上がろう。

私達の学園を来訪する外人は実に多い。そうした庭園は、日本特有のものであるから、外人来訪者の第一印象をよくする為にも、是非見るに足るところの庭園を備えておきたいものである。そんな必要なものならば、手っ取り早く一ぺんに造園してはどうかというものもあろうが、ローマは一日にして成らず、あきないは牛のよだれに限る。

我々の学園は役人などのかいた青写真から出発したものではない。廃屋をかこむ雑草の中にポツリ落とされた種子が生い立ったものである。我々にとっては雑草に被われた庭があり、軒が傾いていても家屋が与えられたということそれだけが大きな恵みで、無上の喜びであり、いい知れぬ感謝であったのである。その喜びのままに、その感謝のままに、夢中で種子を落としたのが我が学園の発症である。