「復活の丘」清水安三語録(第10号)

1955年、創立者 清水安三先生の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中で、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第10号「プールが欲しい」

1956年5月1日発行号に掲載

生徒たち自ら汗を流しながらプールを掘った

私にも中学入学の際、面接試験なるものがあった。今なお、おぼえ居るが「君が何が一番こわいか」という問いであった。私は直に「地震、雷、火事」とまで答えられたはよいが、そこで息詰ってしまった。すると「おやぢはどうしたか」を突っ込まれた。「父は六つの歳に死にまして」といって頭をかくと試験管がくすくすと笑われた。

今の私にとって最もこわいものは、只火事あるのみである。週に一度は寮生を講堂に集合して「諸君、火の用心を第一とせられよ。第二は自習時間の絶対静粛だ」と教える。時には自習時間のことには触れないこともあるが、火の用心のみは必ず告げる。近来大火事が多い。

4月14日青森油川大浜56戸消失、18日福島県常葉267戸、21日茨城県下館68戸、23日福井県芦原温泉329戸。この半月だけでもこれである。3月には能代潟が全滅してる。それから学校では東京女子美術大学が4月11日に焼けている。私の姉が同校の第一回卒業生であるし、友人村岡哲学士が教頭をしていらっしゃる。横浜の成美学園も焼けたるが、大竹校長とは熟懇であるから、極めて近火の感なきを得ない。4月25日の朝日の天声人語には、貯水地の設備が提唱せられていた。

桜美林学園にもプールが欲しい。6棟の木造校舎が並んでいるが、風上から火を出しでもしようものなら一夜の中に焼野原になっちまうであろう。学園所在の矢部村の消防団は校庭の隅に百石の貯水池を設けよといわれるが、跳水地よりもプールの方がよい。プールだと水泳も能きるから一挙両得で。毎夏江の島で臨海学校を開くが、浮けない生徒は、沖へ出られず渚のみで、只ベチャベチャやって居らねばならぬ。渚というものは、泥々にごっているから気持ち悪い。江の島へ行く前に、プールでせめて2、30M泳げるようになっていると危険も伴わないし、又楽しさも十倍百倍する。プールがあれば村の人々も夜は枕を高くして眠れもし、また夏休みには村の成年も泳げて、さぞ喜んでくれるであろう。