「復活の丘」清水安三語録(第4号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第4号「折られた松の木」

1955年11月1日発行号に掲載

学園の玄関

私達は排日の最中に北京で長年学校を経営してきたものであるから、大抵のことには、癪に触りもせず辛抱できるのであるが、お祭りの日の夜、学園の門の両側に植えたる一対のヒマヤラシダーの松の木の片方のシンをへし折られたには弱った。シンをへし折りそれをそのあたりに投げて行った。今晩は桜美林をやっつけようといって、申合せている若衆の相談が洩れ聞こえたので、特に無抵抗を以て、事を起こさぬように生徒達に心構えをさせて置いたから問題は起こらなくって、松のシンが折られただけで済んだのであるからよかった様なものの、誠に残念なことであった。

左側の松が、年一年と上へ上へと伸びて行くのに、右側の松が何年たっても、幹は太っても背は一寸も五分も伸びないままで、何時までも何時までも永久に折られたままに曲がっているであろうと思うと、本当に遺憾である。そして門前を行く人々は、顧みて何時までも何時までも、これを徒らにへし折りし人が誰であるか知らぬがその人を呪うであろう。人に呪われるような人間の運命にろくなことはないにきまっている。

只しかしここに一つ、折られた為によいことがある。それはこの松の木に限らず少年少女の幼い時に、持って生まれた天賦の才を一寸した不注意で伸ばしてくれるどころかへし折ってしまうものが、教育者や親達の中にあるとせば、そういう人々にこの松の如くになることを校門に立って無言の中に、この松が教えるであろう。私は教育とは天賦の才を損なわぬにあると思う。