「復活の丘」清水安三語録(第7号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第7号「郷党の先輩」

1956年2月1日発行号に掲載

滋賀県高島市にある清水安三生誕地の碑

さてわたくしが、自らの人間像を決定的に胸に画いたのは、実に6歳の時であった。それは明治30年9月25日であった。わたくしは尋常1年生だった。その頃新儀村の村長だった伯父が、わたくしを伴うて、藤樹祭に参列した。隣村の村長であったためか藤樹聖院の正面に席が定めてあった。勿論わたくしは自分の椅子は無かったから、伯父の膝の上に抱かれて参列したのであった。

師範学校の学生が、金ぼたんの白い服で、ずらり整列していたのを今も猶お、目に浮かべることができる。河島醇という知事が恭しく藤樹の位牌の前に礼拝したことも、川毛三郎という郡長が知事にペコペコ頭を下げていたのも記憶している。

平素一番エライ人とのみ思っていた郡長の川毛さんが知事さんの前に出ると、まるで青菜に塩だ。それ程にりゆうとせる知事川島醇が、畳に両手をつきて額をすりつけて拝んで止まない藤樹さんは、こらまた何というエライ人であろうという気持ちになったのであった。

その日の藤樹祭は、250年祭で、而も贈位の祝典であったから例年よりも特に盛典であった。今でもわたくしたがはっきりおぼえていることは、帰途安曇川の渡しであったか橋の上であったか、伯父が「お前は大きくなったら、何になるつもりじゃ」と問うた。その時わたくしが「わしはだなぁ、おんサン、藤樹サンみたい人になりたい」といったことを記憶している。

そのことはわたくしも記憶しているが、伯父がよく人々に屡々「店の安は藤樹サンになるとぬかすわい」といっているのを聞いたので一層よく覚えている。店の安というのは、村でうちの家だけが店を持っていたから、そういうのであった。

中学生の頃でも休暇に帰ると伯父がわたくしをつかまえて「おい、われは今でも、藤樹サンになろうと思うとるか」と問うたものだ。わたくしの中学時代は、大概の少年は陸軍大将を夢見たものだが、わたくしは大将になろうなんて思ったことなかったが、牧師になろうとしたのは、伊藤仁斎や山崎闇斎が京都に、林羅山、室鳩巣が江戸に門戸を構えて書を講じたのは、謂わば今日海老名弾正が東京に、宮川経輝が大阪に教会を開いて、聖書を講じているのと軌を同じうするものであると思ったからである。

詮ずる所、わたくしは魚臾、立斎、綱斎、藤樹、天台道士を理想あこがれの人間像として、彼等を目当てに生涯を生きてきたのであった。

本当に郷党の先輩というもの位私達を動かすものはないものである。そしてわたくしが自らの崇拝の的とするに足るような人間像を、郷党の先輩の中に数多く見出したことを幸福であったと思う。