「復活の丘」清水安三語録(第8号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第8号「祈りし甲斐も あらざればこそ」

1956年3月1日発行号に掲載

1955年9月
フェアフィルド氏来訪時の記念写真

昨夏、フェイルド博士は、来朝に先立って、加州から前ぶれ的に『この度、シャン・オベリン財団から派遣せられて、桜美林学園を訪問する。その目的は従来、あちこち国々の学園を応援してきたが、今後は集中的に何れかの一校をぐいと力を打ち込んで応援したいから、何れの学園が援助に値するか視に行く』という書状を寄せられたので、私達は緊張を以て伺博士をお迎えすることにした。(「復活の丘第3号」参照)

~ 中略 ~

私共はシャン・オベリン財団が集中的に助成金を呉れるならば、第一教職員の給与を、公立学校同程度又はそれに近い程度に引き上げること。第二に十年計画で以て、校舎をコンクリート化することであった。先ず短大校舎、次は高校、次は中学部、それよりジムナジアム、ライブラリイ、チャペル、プール次から次へと建築し得る計画であった。年5万$の助成があれば十年後の桜美林はすばらしい学園になるプロゼクトであった。

~ 中略 ~

1月27日1本の航空便がオベリン財団の書記から来た。そしてその答はNOであった。わたくしはそれはシャン・オベリン財団の回答であるばかりでなく神さまの私達の祈に対する答がNOでありしことをはっきり知った。

~ 中略 ~

さり乍ら、この度神の御答がNOでありしことは、人はいざ知らず神は猶も私奴を信頼し給う証拠であると、わたくし自身は信じているのであります。

『米国人などにやってもらわず、汝自ら成せ、われは汝自身にやらせたいからして、この度は汝の祈りを斥けたのであるぞよ』と神語り給う如くに、わたくしは確かに神の御声を聞いたのである。『では己に僕(しもべ)は、歯は遂に義歯、歳は70に垂々としています。誰にも頼まず只神にのみ頼って、十年計画で以って、この度フェイルド博士に提出せるプロゼクトの通り、やりましょう』と決意の程を神に囁いたのである。そして、よしやるぞと足を以て床板を高く踏み鳴らせ、手を撫して叫んだのであった。ああ、誰か之を近来の快事をせざるものがあろうか。顧みれば己に身は老いて昔日の如き元気はありません。願わくは読者諸君の御加護を祈るや切である。