「復活の丘」清水安三語録(第5号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第5号「生徒募集」

1955年12月1日発行号に掲載

短大生募集のポスター

11月30日私はチャペルで『愈々明日から生徒募集』シーズンに入る。募集要項も、ポスターもパンフレットも、漸く印刷でき上がったことを告げた。

『われ乾きし時に、一杯の水を飲ませたり』という聖句を引いて、諸君も母校桜美林に水一杯を注がんとせざるやと問うた。

短大の一女学生がいった。『桜美林を卒業する限りは、一生死ぬまで桜美林の名は私共の履歴につきまとうのですもの、母校の繁栄を祈らぬものが何処にありましょう』と。私は諸君はその母校の繁栄のための一臂の労をとらざるやと問うた。

諸君の身近には小学校六年生、中学校三年生、高校三年生はいるでしょう。その生徒達に桜美林の入学案内書を手渡して欲しい。それが一杯の水ではあるまいか。

聖書には『木はその果実によりて、好き木なるが、悪しき木なるか知るべし』とあるが如く、生徒の皆さんの行為行状に依って、世の人々は桜美林を評価するであろうから、電車の中、往来における一挙手一投足自軍自愛して貰いたい。特にこの生徒募集シーズンにおいてそうである。良薬は千里を走るという諺もある。諸君は果実であるから諸君が良き生徒であれば、千里の遠距離まで学園の名は直き轟くであろう。

生徒達は身を前方へ乗り出して聞いていた。未だ頑是もない子供達ではあるが、いざとなるとやっぱり頼みは彼等である。がしかし彼等に頼んだ丈では私の心は落ちつきそうもない。やっぱり私は神に、良き生徒の与えられむことを祈ることにした。

私は近来学園の最も肝心の仕事でないと手を出さぬ事にしている。何故私自らが生徒募集の陣頭に立てるか、神これを知り給わん。