「復活の丘」清水安三語録(第3号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第3号「フェア・フィルド博士の来校」

1955年10月1日発行号に掲載

米国オベリン大学よりフェア・フィルド博士が来校

9月12日、オベリン大学の財団からフェア・フィルド博士が桜美林学園を視察するために来られた。桜美林を援助するべきか、台湾、印度の学校を援助すべきかを決めるために来たとの前触れであったので、生徒教職員はこぞって涙ぐましい協力を以て最善を尽くして歓迎を為した。草刈、床板ふき、ガラス拭いて以て上へ下への大騒ぎをした。校門には緑のアーチの歓迎門が建てられウエルカムのポスターが廊下の壁に貼られた。

当日は手に手に三角のバナーを振って出迎え、午前は講堂で歓迎大会を開いてチヤーをお浴せし、それより教室の参観、図書館寄宿舎の視察を乞い、午後は運動場で『足並みそろえて』をお見せし、それより野球、庭球、排球、卓球、剣道の各部の活動をごらん願い、茶道部はお茶を饗応し、華道部は花を投げ入れて見せ、音楽部はうたってお聞かせした。夕飯を差し上げて夕方博士を校門までお見送りした時には、学生がお見送りしてまた逢う日までを唄った。

翌日私は確かに手応えはあったと報告して、生徒教員に安心するよう告げたが、その後1週間博士は東京のあちこちを行司が四本柱に訊く如くに問合せをやられたそうだが、某々皆清水安三をボロカスにいったそうである。それは勿論私の不徳の致すところではあるが、同時に日本人は島国根性で以て、人のことにケチをつける国民であるからである。重光外相が米国から帰って来て、否帰る前から、けんけんごうごう悪様にいう日本民の態度には、米国人も驚いているそうだが、それと同じ驚きをフェア・フィルド博士も感じられたであろう。『そらリュック1つ負うて引き揚げて帰って、これだけの事業を成し遂げたら、必ず人々はほめはせぬよ』と言うて慰めて呉れた人もあるが、私の悪口を言って得をするものは台湾かそれとも印度の学校だろうか。