「復活の丘」清水安三語録(第9号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第9号「褒美膳」

1956年4月1日発行号に掲載

清水安三 生家

僕の小学校時代は、修学証書の外に優等証書というものも呉れた。「学術優等、品行方正奇特に付之を証す」という文句だった。優等証書だけしか預けぬ生徒もあったが、それに褒美というものを添えてもらったものも各級に四、五名いた。僕は余程自信があったと見えて、風呂敷を一枚たたんでふところへ入れて卒業式へ行ったもんだ。それは商品を包んで帰るための用意であったことはいうまでもない。

僕の家の風俗として、褒美をもらった子供には赤飯を炊いて、かしわと百合根の茶碗蒸し、ひらにはブリの一片に白根、青い根の葱を柔らかく煮て添え、焼き物には小鯛を焼いて塩を振るえるものであった。母としても、こうした馳走を作って待ちつつも、栄ある子らを持てることを身に染みて幸福に思ったに違いない。

その頃には落第生にも卒業式に列席せしめたものだ。残酷なことをしたものである。一人一人に修業証書を手渡したる後、校長は誰の何蔵は落第、何某何之助も落第という風に名を呼んでいい渡した。勿論元気を落とさず、この際大に発憤して勉強するようにさとす言葉を付け加えながら披露したことはしたが、今日から思えば想像もできぬ残酷な式であった。落第生はまた落第生で、自分の名前を呼ばれると声を合わせて泣きしゃくるのを儀式にしたものであった。僕のすぐ上の次兄は、学校を長く欠席したために遂に落第の数に入れられてしまったのであった。

僕と高等科の姉と二人は例に依って、風呂敷に褒美を包んで襷がけに背負って帰って、只今、只今と勇ましく家の敷居をまたいだけれども、その次兄はしょんぼりと雪隠の傍らの柿の木にもたれてなかなか入って来ぬ。長兄が外からもどって来て、弟が落第したと聞いてかっとなり、直ぐきものの襟をつかんで家の中に入れて、「落第などする奴はおめいだけじゃ。わし等は二番に一ぺんなったらおじ(祖父)がおこの棒でわしをおいかけたもんじゃぞ」といって次兄を畳の上へ突倒して、箒で尻をバンバンたたいた。「おかあ、お前が子供に甘いから、落第などしくさるのだぞ」といって母に喰ってかかったが、母は一言も言葉を返さなかった。

さていよいよ夕食となると僕ですらびっくりしたことには、落第した次兄のお膳も、褒美をかち得たる姉や僕のお膳と少しも違わぬ馳走がのっかっているのではないか。そこで僕は母に向かって質問して「おかあ、落第したもんでも、赤いこわ飯、鯛の尾頭つきの焼物で祝ってもらえるのかい」と叫んだところ、次兄は泣きはらした眼で僕をキヨロとにらみよったが、母はにっこり笑って「これはなあ来年の卒業式の前祝いをしてやってるのじやわ、善(次兄の名)も来年は褒美を取るわね」といって「善、遠慮せんで食えよ」と言葉を加えた。

従来ともすると怠け勝ちな少年だった兄は、それより後にとっても努力家になり、翌年の三月には母の予言の如くに褒美をたんまり頂いたばかりでなし、校長さんは特に次兄の姓名を訓辞の中にも入れて生徒達を激励せられ、非常な名誉を勝ち得た。但しその年のわが家の好例の赤飯鯛祝いの馳走の数々は、次兄の膳の上には見えなかった。

「お前去年、御馳走を食うねうちのないのに頂いたんだろう。それじゃから今年は褒美を頂いたけれども、沢庵で麦飯の茶漬けを食え」と母は次兄に命じたが、次兄はバリバリと沢庵をうまそうに食って、少しもうらやんだり、けなりそうな顔を見せなかった。そしてその翌年も、その又次の翌年も次兄は赤飯と百合根とブリと鯛を食い得る権利を見事獲得することに成功したのであった。