「復活の丘」清水安三語録(第11号)

1955年、創立者 清水安三の執筆により卒業生に向けた会報が「復活の丘」という名前で誕生しました。第1号(1955年8月1日発行)から第11号(1956年5月1日発行)の中に、学園が創成期から徐々に大きく成長していく中で語った安三の言葉があります。

「復活の丘」はその後順調に発刊を重ね、1993年10月発行の151号より「同窓会だより」とタイトルを改め、現在に至っています。

第11号「蜘蛛と鉄眼に学び、悲願達成の決意をす」

1956年6月1日発行号に掲載

6月1日には64回目の誕生日を迎えた。交友から価高いバースデーカードが贈られた。祝電もあった。感謝ではあるが勿体ないこっちゃ。

序にいうが近来兄弟や校友の来訪には必ず手土産の菓子折が伴う。断っておくが私は洋行以後味覚が一変したか、甘いものがキライである。

もっともおサツは昔の如く変わらず大好物。貫目で量るオサツも好きだが、円で計算するおサツが欲しい。向う10年間は手土産は一切紙製おサツにして頂きましょう。

カードは板垣退助のカードがよい。聖徳太子なら一層有難い。米国ならば大統領の肖像入のグリーンバック、その代わり決して自己のために用いず頂いたら悉く建築費に用います。

校舎建築資金は一体誰が集めるかって。勿論私自身が集めます。幸い私は一疋一人の激励者を持っている。一疋は英王ブルースのクモである。7度網を破られても八度目の網を張った彼の偉い蜘蛛である。

一人は鉄眼和尚である。一切経飜刻の悲願を立てて、天下を托鉢し巡って、資金を一度得ては、遇々起れる飢餓の救済に用い、二度び集めては遇々ありし洪水の難民救助に用い、三度び天下を托鉢し巡って遂に一切経飜刻の大業を成し遂げた。

成程私は祖国の敗戦のため、洋風6棟、中華風18棟の建物を失ったけれども、それは只一回だけのことではないか。昆虫のクモ、仏僧の鉄眼に負けてはならぬ。

余生はもう長くはない。善は急がねばならぬ。募金キャンペイン中、脳溢血で倒れるかも知れぬ。けれどもこの度の悲願は一命を掛けなければ到底できそうにない。